この年表は、大河ドラマをもとにして三八が個人で作成したものです。
趣味で作成したものなので、いささか間違いがあるかもしれません。
今後も文を増やしていくかも?(笑

年号日にち風林火山のできごとこのころの背景
1500年
(明応9年)
勘助(幼名:源助)生まれる
『甲陽軍鑑』によると生まれは1493年。また1501年説もあるそうですね。
朝廷がおとろえ、公家・貴族などが多く地方に下る。
1519年
(永正16年)
 甲斐、府中に「躑躅ケ崎館」が築かれる 
1520年
(永正17年)
 勘助、三河を出て諸国漫遊修行の旅に出る  
1521年
(大永元年)
 晴信(幼名:勝千代)15歳
「飯田河原の合戦」(今川軍VS武田軍)
細川高国が細川澄元を破り、足利義晴を将軍とする。
1525年
(大永5年)
 勘助、紀州高野山で麻利支天を授かる  
1530年
(享禄3年)
1月21日長尾景虎(のちの上杉謙信)生まれる。 
1534年
(天文3年)
  織田信長生まれる。
1535年
(天文4年)
8月勘助(このころは大林勘助と名乗っている)甲斐の地を訪れ、
ミツ、伝助、太吉、平蔵達と出会う
和睦関係にあった武田と今川の関係が悪化。
 
  8月19日勘助、ミツをつれて戦見物にゆく。
武田と今川の合戦突入
 
  8月22日勘助とミツ、今川の援軍に来た北条兵に見つかり、ミツを置いていく
伝助に「ミツは?」と聞かれて「知らぬ」と答える。
北条の援軍により今川軍の勝利
 
  9月勘助、大林の名を捨て「山本勘助」と名乗る
勝千代、信虎に鬼鹿毛(馬)をねだるが拒否される
  
1536年
(天文5年)
1月1日勝千代、元服して武田晴信になる。  
  2月信虎の乱行により、ミツ死亡。勘助、信虎への敵討ちを誓う  
  3月勘助、伝助と太吉と共に板垣信方に仕官を願い出る。
伝助は河原村伝兵衛に、太吉は葛笠太吉に改名する。
晴信と勘助の初対面
  
  3月今川氏輝と、その実弟彦五郎が原因不明の病で急逝 
  5月25日今川家家督争い「花倉の乱」が起こる 
  6月福島勢、武田軍の援軍を待つが、信虎は援軍出さず。
勘助、青木大膳と出会う。(青木おもしろい)
家督争いに勝った梅岳承芳は駿河の守護になり、「今川義元」になる
 
  7月三条の姫が甲斐に輿入れする。  
  8月?勘助、平蔵と再会。真田幸隆と出会う。(佐々木蔵之介幸隆様イケメソ)  
  11月晴信(16歳)初陣。「海ノ口の合戦」  
  12月26日信虎、海ノ口城がなかなか落ちず、イライラ。ついに甲府に引き上げる
晴信、「殿」をつとめる。「晴信が殿じゃぁぁ」(笑)
  
   晴信、再度引き返し海ノ口城を攻め落とす。
勘助、晴信と再会。「偽軍師の首を討ちとったぁ!」勘助ショック。
  
1537年
(天文6年)
1月1日死にかけの平蔵、矢崎十吾朗とその娘ヒサと出会う。木下藤吉郎、生まれる。
  2月武田信虎、長女を今川義元に嫁がせる。
武田と今川の同盟締結
 
1538年
(天文7年)
晴信と三条の間に嫡男の太郎(のちの義信)生まれる。  
1540年
(天文9年)
11月晴信の妹、禰々が諏訪頼重に嫁ぐ。  
12月17日信虎、諏訪に会談に訪れる。その際、諏訪頼重の娘、由布姫を見初める。
頼重に、娘を側室として差し出すよう命令。
  
1541年
(天文10年)
 甲斐はかつてない飢饉にみまわれる。
勘助(41歳)、いまだ無職。
武田軍、信濃侵攻を進める。
 
  5月信濃の真田郷に立つ松尾城が村上、武田軍に囲まれる。
真田勢は敗れ、幸隆とその妻、子供達は上州へ逃れる。
勘助、真田幸隆が敗れたと知る。幸隆と再会。
 
  5月末信虎、甲斐の国より追放される。  
  6月28日晴信、武田家のあとを継ぎ、甲斐の国主となる。
諏訪頼重は由布姫を差し出さなくてもよくなったので一安心
勘助、いまだニート
  
  7月北条氏康、家督を継ぐ。  
  10月?青木大膳、勘助のもとを訪れる。
勘助、策を用い青木を騙し、武田に仕官する。青木死亡。
  
   勘助、42歳にして仕官叶い、春日大隈の家に住むことになる。
春日の息子、源五郎(のちの香坂弾正)と出会う。
  
   仕官したものの、武田家の一部の家臣にイジメに会う。  


つづく

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